188体育

「学びの銀河」物語その2―新学部創設をめぐるドラマ

「学びの銀河物語」新学部創設をめぐるドラマ

一般教育部の設置―岩大方式の出発

教養教育の重視を打ち出した岩手大学でしたが、最初の試練は岩手師範学校女子部校舎の消失でした。当時、内丸地区にあったこの建物を教養教育の講義室として使用する予定でしたが、それが1948年(昭和23年)8月に全焼してしまったのです。大人数の講義をするにも教室がない。そこで発足の翌年1950年(昭和25年)9月から5000万円という当時としては巨額の予算によって、現在の人文社会科学部の敷地に、A棟、B棟、C棟、D棟の四つの講義棟が建設されました。
このうち、A棟とC棟は国費によるものでしたが、B棟とD棟は岩手県と盛岡市から1500万円の援助で建設されたものでした。このことからも、いかに岩手県民と盛岡市民が岩手大学に期待し、それを応援してくれていたかがわかります。ともかく建物はでき、教養教育を行う条件は整ってきました。
発足当時、教養課程の教育は、学芸学部の教員が担当することになりました。そのため、工専、農専からも7名の教員が学芸学部へ配置換えとなり、32名の教員が一般教養教育の担当者となりました。ただし、一般教養教育の実施には、「もっと責任ある体制で独立して運営すべきである」という意見が工学部と農学部から出されました。
この要望を受けて、1954年(昭和29年)に設置されたのが「一般教育部」という組織です。これは一般教育の担当者に加えて、各学部から3名の委員か参加して教授部会を作り、組織の長として主事を選出して、一般教育を「実現しうる可能な程度にて、なるべく独立態勢」で取り組むための組織でした。「これがためには全学一致して協力」するという合意も評議会でなされました。この一般教育部の設置は、全国で「岩大方式」と呼ばれ、全学の協力によって教養教育を重視した取り組みとして注目を集めたのでした。

教養部の発足―第二の試練

岩手大学が一般教育部の独立的な運営を続けている中で、1963年(昭和38年)に中央教育審議会から「大学教育の改善について」という答申が出され、教養部という独立部局の設置という方針が打ち出されました。そこで一般教育部の実績を持つ岩手大学でも、教養部の設置に向けた動きがはじまりました。しかし、教養部の設置が岩手大学にとっては、一般教養教育に第二の厳しい試練をもたらすことになったのです。
というのは、同じ頃に、教員養審議会からも「教員養成制度の改善について」という建議がなされ、教員免許状の付与の条件として国による基準の明確化が求められました。これを受けて文部省は、学芸学部という名称を教育学部に改めることや、教育学部の課程?学科目に配置する教員数も省令として定めることにしたのです。このため、学芸学部では、省令に基づいて教育学部に配置する教員数を確保する必要が生じ、結果として、新しい教養部に配置される教員数は少なくなってしまったのです。
当時、一般教育部には43名の教員がいました。そして学生数から割り出した望ましい教員定数は53名でした。しかし、教育学部への改組のため一般教育部からも教員が教育学部に移り、1966年(昭和41年)に教育学部と一緒に発足した教養部は、31名というきわめて少ない教員数でスタートすることを余儀なくされたのです。
その一方で共用部は、独立の部局として一年生と二年生が在籍し、人文?社会?自然三分野36単位、外国語12単位、体育4単位の52単位について、その教育上の責任を負うことになりました。このころより、工学部学科の新設が相次ぎ、学生定員が増えていきました。ただし、その場合でも教員の増加は、学部と教養部では4対1程度の大きな格差がありました。こうして教養部は発足しましたが、実態としては一般教養教育を担う教員が圧倒的に不足していました。かつて全国的な注目を集めた岩手大学の一般教養教育は、教養部の設置により、一転して貧しく苦難の時代を迎えたのです。

襲いかかる大学紛争

そこに襲ってきたのが大学紛争です。1968年(昭和43年)には、東京大学の安田講堂が過激化した学生によって封鎖され、翌年、東大は入試の中止に追い込まれました。政府は「大学運営に関する臨時措置法」を上程し、それを衆参両院で強行採決しました。そのことが学生の過激化に油を注ぐことになりました。岩手大学でも、とりわけ教養部で様々なセクトの影響を受ける学生が全学共闘連合(全闘連)を結成して、1969年(昭和44年)9月には、188体育室へ乱入して、全国的に見られた「大衆団体交渉」を要求しました。
これに対して岩手大学は、全国でも珍しい学生と教員による「全学集会」を開催し、「紛争の原因追求とその除去のみならず、更に大学のあるべき姿に向かっての積極的改革を種々の角度から取上げ、全大学人の冷静かつ理性的な討論を通しての対処こそ我々がとるべき道だろう」(「九?一三評議会の結論について」)として、学生が要求する問題も「大学問題検討委員会」で検討することを表明したのでした。
しかし、その後も教養部の新棟が全闘連に封鎖される事態が二度にわたって生じ、1970年(昭和45年)の入学式では一部学生が式場に乱入して演壇を占拠したりしました。教職員は班を編制して大学に寝泊まりするなどの対応にオわれました。
それでも、校舎の占拠が二度で、それも教職員の説得によって自主的に解除されたことは、全国の大学紛争の中では珍しい軽微なものでした。多くの大学は、校舎が長期にわたって占拠されたり、破壊されたりしたのです。その残党が、現在でも学生寮等に居座っている大学も少なくありません。
しかし、教員が少なく、教養部での学生への指導や教育も手薄とならざるを得なかった岩手大学の現実も、やはり大学紛争を深刻化させた原因の一端でした。大学紛争は、教養部設置以来の岩手大学の問題を浮き彫りにするものだったのです。

大学改革はじまる―新学部創設へ

1973年(昭和48年)11月に188体育選挙が行われ、岩手大学に籍を置いたことのない植村定次郎元東京大学教授の就任が決まりました。学外に人材を求めた188体育選出は、岩手大学の構成員が本気で改革を希求していることの表れでした。翌1974年(昭和49年)1月に着任した植村新188体育は、秋田大学の医学部設置に触発され、新学部創設が課題となっていた岩手大学の将来について、次のように述べました。
「地方大学の改革課題は教養課程や教養部の改革と大学院の改革の二つが中心」、「各学部が単一のキャンパスに集合し、意思疎通が可能であるという現在の好ましい条件を生かすことが重要であって、いたずらに膨張をもとめるべきではない」。
この指針により、教養部の教員を中心に一般教養教育の改革が本格化しました。その時、モデルとなったのは、教養部を改組して総合科学部という学部を創設していた広島大学です。教養部では、直ちに菊池誠?佐藤正両教授を広島大学へ派遣し、広島大学での経験を参考にしつつ、3月には「一般教養課程の改革と総合科学部の創設(案)」をまとめたのでした。
しかし、この時、不幸が岩手大学を襲います。着任して間もない植村188体育が4月13日に急逝されたのです。それでも、植村188体育の「思い」は、次の第五代加藤久弥188体育へと引き継がれました。加藤188体育は、植村188体育の下で進められていた学部創設検討委員会の議論を引き継ぎ、教養部がまとめた案を含む各学部の案の検討を進めました。そして、7月、学部創設検討委員会が答申した『岩手大学の研究?教育改革と学部創設についての基礎構想」が評議会決定となったのです。
その「まえがき」には、「本構想では、まず、『人間的教養人と専門人の育成の調和』を学部創設?大学改革の柱と考えた。」と述べられています。また、「構想立案の基本方針」では、「広い視野をもって全人格的な完成を方向付けることが要請されている」として、「専門教育と一般教育とが、緊密な連携を形成して、一体化して実施される方法が探求されねばならない」。「それぞれの学部が、その独自機能を追求しながら、その独自性に根ざして、全学的な協力によって、一般教育を充実させる改革が必要である。」と述べられました。
これは、岩手大学が改革を行うにあたって、改めて建学の理念に立ち返ったことを示すものでした。そして、教養設置以来の弱体化した一般教養教育を全学協力の下に再編強化することが方針として明確に打ち出されたのです。
教養部を総合科学部とする案は、次の将来計画委員会へ引き継がれ、1975年(昭和50年)に文部科学省へ概算要求することになりました。しかし、またしても不幸が岩手大学を襲います。将来計画委員長として、この概算要求の先頭に立っていた三神悌次工学部教授が倒れ、享年55歳で亡くなってしまうのです。

人文社会科学部の創立―総合大学としての充実

教養部を母体とし、文部省との交渉の過程で人文社会科学部と名称を変更した新学部が設置されたのは、1977年(昭和52年)5月です。教養部の教員は、38名に増えていましたが、まだ一般教育部当時の43名を下回っていました。それが人文社会科学部になることによって92名の体制となりました。そして、この92名の教員全員が専門教育と一般教養教育の両方を担当することになったのです。教養科目は、17科目から26科目へ増えました。新たに総合科目6科目が新設されました。さらに、外国語科目、体育科目も大幅に充実しました。
人文社会科学部の創設は、岩手大学の歴史に大きな意味を持つものでした。というのも、岩手大学は総合大学とはいっても、いずれも戦前の専門学校を母体とする専門職業人養成の性格の強い大学でした。その点で、旧制弘前高校を母体の一つに持つ弘前大学などとは違っていました。第二高等学校を引き継いだ東北大学もそうですが、旧制高校を全身に持つ大学には、戦前来の教養主義の伝統があったからです。
「使われる人間ではなく、人を使う人間になれ」。良しくも悪しくも旧制高校のエリート主義教育は、「教養人たれ」をモットーにしていました。専門職業人を強く施行する人達の中には、そうした高踏的な教養主義を嫌う人もいます。しかし、岩手大学が建学にあたって掲げたのは、専門人と教養人の調和のとれた人格です。その教養とは、ノーブレス?オブリージュ(尊きがゆえの義務)に代表される戦前のエリート主義的な教養ではなく、新しい市民社会の担い手としての教養です。
その意味で、岩手大学の中に四つ目の新しい学部として教養教育を担う学部が生まれたことは、岩手大学の総合大学としての幅を広げ、建学の理念であり、現在の教育目標である「教養教育と専門教育の調和」を実現するための足場を固めることを意味したのです。

岩手大学「学びの銀河」物語より

「学びの銀河物語―第三のドラマはいま佳境に」へ続く

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